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パイレーツ

 数学者のピュタゴラスはエーゲ海のサモス島の宝石細工の職人の家に生まれました。『サモスの賢人』と呼ばれ、『万物は数なり』という定義を打ち立てます。

 紀元前六世紀のサモス島は、交易の拠点として発展していました。またゼウスのお妃ヘラの生誕地としても有名で、世界遺産に登録されています。

元祖海賊のポピュクラテスも同時代サモス島生まれです。ピュタゴラスは流転の末イタリアに移住。三平方の定理をはじめ幾何学上の数々の発見をしました。一方ポピュクラテスは海賊となり、50隻のガレー船に千人の兵士を擁してエーゲ海で掠奪のかぎりを尽くしりました。

 ガレー船は喫水の浅い小型船で、何十人もの漕ぎ手が左右から長いオールを出して漕ぐ軍船です。小回りが効いて、相手の船に突っ込んですぐさま兵士が乗り移る戦闘には適していました。漕ぎ手が戦闘員を兼ねることもあったようです。

 独裁政権は続かないもので、ポピュクラテスはサルディスの提督オロイテスに謀殺されます。

現代ならば、極悪非道を尽くした犯罪者がその報いを受けたという事に終わりそうですが、歴史の父祖と言われたヘロドトスはポピュクラテスを『英雄』と賞賛します。

これが僕たちの『ジャック・スパロウは海賊だけど、どこか憎めない』という愛情につながっていくのかも知れません。

 時は下って14世紀、イングランドのフランシス・ドレークの登場です。

 当時のスペイン帝国は、ペルーで収奪した金銀財宝を海路パナマへ集積、そこから陸路カリブ海側のノンブレ・デ・ディオスへ運んでいました。

 1573年5月、ドレークはその輸送隊を襲撃します。カリブ海に待機する海賊船でプリマスに運びましたが、積みきれなかった金銀は何処かに隠したと伝えられています。後世伝説となる海賊の財宝ですね。

 1577年12月、エリザベス女王の庇護を受けたドレークは、嵐で僚船を失いながらも南米大陸南端を越えて、太平洋側に辿り着きます。

 その海でスペインのカカフェゴ号を捕獲。金・銀・白銀などと共に夥しい宝石類を収奪。このまま逃亡を続け、遂にカリフォルニアへ達しました。

僕ならそれで満足して、エリザベス女王のお土産を携えて英国に凱旋し、冒険談を出版したり絵を描いたりしてのんびり暮らすところですが、ドレークは豊富な資金を元手に太平洋を横断して、東南アジアに達し大量の香辛料を積み込んで、インド洋から喜望峰を回るという大航海の末、プリマスに帰ります。

 莫大な財宝に女王も大喜び。その財貨でイングランドが抱えていた対外負債が返済できた上、東インド会社設立の資金となりました。

暴虐無尽の海賊行為とカトリック対プロテスタントの対立もあり、イングランドとスペインの国交は徹底的に破綻。

 繁栄を極めていたスペイン帝国のフェリペ二世が大艦隊を編成。無敵艦隊(アマルダ)です。西洋史でお勉強したよね。

 ドーバー海峡のフランス側のカレーに集結した無敵艦隊を英国艦隊が奇襲して撃滅。この大敗北がスペイン帝国の終わりの始まりとなりました。

国家が軍隊を占有する事で、海賊の時代は変わりつつあります。

 悠々自適の隠退生活のできなかったドレークのその後はあまりパッとせず、パナマで赤痢に患かり『元祖カリブの海賊』は亡くなります。遺体は鉛の柩に納められカリブ海に沈められました。

 プリマスにはドレークが大航海をしたゴールデン・ハインド号のレプリカや彼の銅像が海を見つめて佇立しています。

 キャプテン・キッド1640年代にスコットランドの港町でカルヴァン派の牧師の家に生まれました。チャールズ二世の王政復古でプロテスタントへの弾圧が始まり、一家は北アメリカに移住します。イングランドでは一六五一年に航海条例が制定され、北アメリカ植民地はイングランド以外の外国船を排除する重商主義がとられていて、その結果物資不足に陥り、それを補う密貿易が跋扈していました。

 キッドはその商機を掴んで頭角を現し、ニューヨークで数隻を所有する密貿易商人として成功しました。

 1688年、ヨーロッパの覇権を企てるフランスのルイ十四世と、ヨーロッパ諸国同盟との間で戦争が勃発します。各国はまだ非力だった海軍力を補うため、海賊たちの手を借ります。官制外注ですね。

 そのうちインド洋で海賊が跳梁し始め、フランスとの戦争で戦力を割けないイングランドは彼らを掣肘する必要に駆られ、キッドに白羽の矢を立てます。

 イングランドのお墨付きを得て、テムズ川河畔のデッドフォードから意気揚々と出港したのに、河口でイングランドの艦隊に停船させられ、船員の半数を強制徴募されてしまいます。まったく理不尽な話です。

 ニューヨークに停泊して船員をリクルートしようとしましたが、戦時下でもあり思うように良い人材が集まりません。どうもこのあたりから、キッドの運勢が下降線をたどり始めたようです。

 イングランドからはフランス船舶からの私掠の許可を得ているものの、肝心の獲物がいません。船員たちの給料を支払う為には海賊働きで稼ぐしかありません。

 キッドはインド洋を見限って紅海へと向かいます。

 紅海はヨーロッパとインド洋を結ぶ交通の要諦で、それは今でも変わりません。キッドのアドベンチャー号はこの海でアラブの商船を襲いました。

ところがアラブ商船団は、海賊を警戒してイングランドやオランダやフランスの艦隊に護衛をさせていました。キッドはフランス国旗を掲げて近付き襲うという策略を用います。映画であれば土壇場で髑髏の海賊旗がスルスルとひるがえる場面ですよね。

 そんな騙し討ちでまんまとアルメニアのクェダ・マーチャント号を拿捕しますが、運の悪いことに船長はイングランド人でした。

 1699年4月カリブ海のアンギラ島に入港したら、イングランド国王からキッドに逮捕命令が出ていました。キッドは陳情のためボストンに行きましたが、そこで捕縛されロンドンに護送。テムズ河畔で処刑されました。

 深紅のチョッキに宮廷風のブルマー、ダンディーな赤い羽飾りの帽子、首にはダイヤの十字架。腰に剣を吊るし、肩からはシルクのホルダーに二挺拳銃。最後のカリブの海賊バーソロミュー・ロバーツの登場です。

現代に遺る海賊ファッションの原典ですね。

 1718年2月、ロバーツが乗り組んでいた奴隷船が海賊船に拿捕され、無理矢理海賊の仲間にされます。

 実際やってみるとメシはたらふく食えるわ、悦しみも多いわ、『太く短く生きる』ことに決定。さらに彼の隠れた才能が開花して、たちまち船長まで登りつめ、南米のブラジル沖ではポルトガル船を襲撃。砂糖、皮革、煙草、装飾品と金貨など莫大な戦利品を手にしました。

 その後カリブ海、西アフリカを荒らしまくり、1722年の春から秋にかけて、なんと400隻に及ぶ船舶を捕獲しました。

 余談になりますが、1702年合同法によりイングランドとスコットランドが一緒になり、国名の呼称がイングランドからイギリスとなります。ちなみに日本ではエゲレスと呼んでいました。

 1722年、そのイギリスの軍艦スワロー号が西アフリカのギニア湾に停泊中のロバーツの海賊船団を発見。ロバーツたちは、朝っぱらからから酒池肉林のどんちゃん騒ぎですっかり油断しています。おっとり刀のロイヤル・フォーチュン号は湾外への脱出を試みますが、スワロー号から放たれた榴弾でロバーツは40歳で人生を閉じました。カリブの海賊は終焉を迎えたのです。


●参考文献 『海賊の世界史』中公新書 桃井治郎・著

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