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  • Hide Hayashi

ゑびす堂便り ー 2020年秋の号 ー

 


ポストコロナになったら復活しようと、「ゑびす堂便り」の春・秋号は休刊いたしておりました。でも夏が来ても収まる気配が見えないので、秋の号はウィズコロナながらの再開です。

 緊急事態宣言が発令され、ジムが休館になると僕はたちまち体調を崩し持病の神経痛が悪化して、クラッチを使わないと歩けなくなりました。 

 どのみち不要不急の外出は避けなければならないとのまるで戒厳令のような大本営のお達しなので、マンション内でひっそりと息を潜めて仕事をするしかありません。お陰で画業は進みましたが、外出不可となってみれば、徐々にストレスは溜まります

 それにしても世の中が変わってしまいますよね。サラリーマンもテレワークで仕事ができるとなれば、朝夕の交通ラッシュも解消されるし、膨大な通勤時間の節約により、自分の趣味に充てたり副業の時間さえ持てます。また家庭での子供たちとのコミュニケーションも豊かになるに違いありません。それに通勤から解放されると何処にでも住めるので、例えば実家が農業の人は菜園や果樹園を手伝いながら、企業に属しているという立場を保てます。それは若い人たちの結婚の有り様に大きな意識改革が生まれ、少子化の問題も改善されると思います。事業所が東京の中心部から離れることで、土地の余裕が生まれもっと自然遊休地を増やす余裕ができるいいですね。都心部のマンション建設はすでに飽和状態です。

 週刊誌をめくれば著名作家の方々がエッセイを執筆されていますが、いずれもコロナが齎す理不尽さや不自由さの連呼です。昭和の大発明のカラオケと飲食を伴うカラオケスナックが淘汰されようとしています。新宿のゴールデン街も渋谷の呑んべえ横丁も危機的状況で、愛しき昭和がまたひとつ消滅してしまいそうです。


 昭和・平成・令和と生きてきて、まさか伝染性のウィルスでクラスターが発生して、世界中がパンデミックに陥るなどということは想像もできないことでした。僕の親の世代には悲惨な戦争がありました。空から大量の焼夷弾が降って来ないだけでもいいのかもしれないけれど、世の中に不安感が広まると道征く人々も苛立っているような気がします。もっともマスクで覆われているので、表情はよく窺えませんが・・・。  

 完璧な政治システムは世界の何処にも無いのでしょうが、それにしてもアベノマスクやゴートゥ・キャンペーンに代表される日本の大本営は心もと無い雰囲気です。ならば自分の身は自分で守るという個人主義に陥りがちですが、互いに助け合ってこそ自分の身も守れるのです。

 僕らにとっては初めての体験ですから、その都度塾考を重ねながら、用心深く進んで行くしかありません。何処まで続くか判らない泥濘に杖を立てて、一歩一歩ゆっくり歩くのです。転ばないようにね。短気はいけません。

 突然私ごとですが、1971年に母が破産しました。破産というより僕が唐津に帰ってくる見込みが無いので、諦めてしまったというのが事実だと思います。もうひとつの事象としては、既製服が全盛となり注文服は廃れてゆきました。大正二年生まれの洋裁師の母は、そんな世の流れに付いて行けなくなったのです。そんな母は女手ひとつで僕を育ててくれました。

 僕は仕送りが途絶えて、学費や生活費を稼ぐため早期就職を余儀なくされました。当時は母子家庭の子弟は大企業には就職出来ないというまるでムラ社会の掟のような不文律がありましたから、零細企業を狙いました。

 墨田区あたりの町工場や看板屋さんに入れると、少しは母に仕送りがしてあげられると思っていました。それとも岡山か四国辺りの入浜式塩田で働いて、土人のように真っ黒に日焼けするのも男らしいですよね。あるいはギターを抱いて北海道に渡り、北酒場で流しのあんちゃんになるのも面白い生き方ですね。浅丘ルリ子さんのような美女と巡り会えるかも・・・

 色んな妄想を巡らしているうち、外国映画の輸入会社で取り敢えずバイトで働くことになりました。母が僕の小学生の頃から家庭教師を雇って英語を習わせてくれたのが功を奏したようです。終戦直後のどさくさの中で片言の英語を喋る復員服の男が、進駐軍から手に入れたコーンビーフ缶や小麦粉を闇市で高値で売り捌いて甘い汁を吸っていたのを、モンペ姿の母は電信柱の陰でしっかり観ていたに違いありません。因みに母はコーンビーフ缶が好物でした。若い頃芸者で鯨を肴に焼酎を飲むのが好きな祖母は「芸は身を扶ける」が口癖でギターを買い与えてくれ、母は英語学習を与えてくれました。

 虎ノ門で地下鉄を降りて、アメリカ大使館とホテルオークラに挟まれた霊南坂を登って丘の上のスペイン大使館の隣の麻布ハイツにその会社がありました。外国映画の権利を取得して、それをテレビ局に販売する会社は当時何社かあって、銀座・赤坂・六本木に集中していました。でもその優雅な仕事も最早過渡期に差し掛かっていて大手は撤退しており、一方好調な業績に支えられたテレビ各局は自社制作の番組が主体となりつつありました。少年時代に観た「ララミー牧場」や「ローハイド」など海外人気ドラマの終焉です。終戦直後から始まった海賊商売の時代はとっくに終わっていました。

 就職先の黒田研三社長は総合商社から脱サラした人で、その強引な商売に世間の人は「蝮のクロケン」と呼んでおりましたが、優秀な商売人でした。「市況が変わればこちらも変わらなければならない」という柔軟な志考の持ち主でした。海外ルートを使って映像を探して、それを八ミリフィルムとして販売したり、映像資料としてテレビの制作部に買っていただいたり、テレビのドキュメンタリー番組に再構成したりして商売しました。タイプライターを叩いて海外へ問合せのメールを出すことが平素の僕の仕事になりました。  

映像取得の目処が立っていざ製作が始まると、企画から完パケまで全て僕の仕事だったので、他社のスタッフの方々に教えを乞いながら現場の仕事を覚えました。周りの人たちに恵まれていたので、僕はラッキーでした。

 1979年に独立して今日に至っています。当初は苦労もありましたが、蝮のクロケンさんの叱咤激励が大いなる糧となりました。勉強のために映画を沢山観ました。休日は手弁当で都内の名画座をハシゴしました。それで映画を選定する眼が養われたことが無形の資産です。それは加奈も同じです。あるいは僕より上かも・・・。

 やがて代表権をその加奈に移行して、僕は下町の無名の絵描きとなりました。また売れないシンガーソングライターも高校以来続けていますが、これはコロナで開店休業中です。悠々自適とはいきませんが、まあまあ満足な毎日を送っています。

 それにしても暑いです。僕らも熱中症になりかけました。蝉が六区通りに干からびて転がっていました。合唱。短い命が尽きたのですね。周りに鳩が居ましたが、彼等は穀物しか食べません。つまりビーガンですね。だから平和の象徴です。この原稿は八月中には校了を終えたいと思っていますが、皆さまのお手元に届く頃には、涼風が立つ気候になっていると良いですね。

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